コーヒー界のニューロダイバーシティ:宮城 穂健さんインタビュー

コーヒー界のニューロダイバーシティ:宮城 穂健さんインタビュー

Standart Japan13号の長編記事「コーヒー界のニューロダイバーシティ」について、ソーシャルメディアなどを通じてご意見・ご感想を寄せてくださった皆さん、ありがとうございました!

中には神経発達症を持つ方から、実生活では偏見や固定観念から周囲の理解が得られづらいため、このようなトピックを扱ってくれてありがたい、という嬉しいご連絡もありました。

そこで、もっとこの問題を身近に感じてもらえるよう、日本でコーヒーの仕事に携わり、ADHD(注意欠如・多動症)当事者でもあるT&M COFFEEの宮城 穂健さんにご協力いただき、診断までの過程やその後についてお話を伺いました。

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※宮城さんからの注意事項

以下のインタビューを読み進めていくと、恐らく「これって誰にでも(定型発達者にでも)あることなのでは?」と感じることが多く出てくると思います。もしかしたら、それが“普通の”感覚なのかもしれません。しかしADHDと定型発達との間に明確な境界線をひけるわけではないということをご理解ください。僕にとってはすべて事実であり、誰かの何かのご参考になればと願うばかりです。

 

——まず、ADHDと診断されるまでの過程について教えていただけますか?

2016年の診断当時、僕は大学4年生でした。理学部で魚類の生活史がテーマの研究室に身を置きながら、教職もとっていたのでそれなりに忙しくしていた記憶があります。 

また、その前年に父親が急逝し、徐々に心身への負担が増してきていました。我が家は教員の両親と、当時高校生だった弟の四人家族で、父親の死は全く予想していなかった出来事でした。葬式や身辺整理もあり、家庭内の空気も荒れ、二ヶ月ほど大学へ行けない期間が生まれたため、その期間止まっていた研究の進行や、教育実習の受け入れ先の選定など、僕の肩にかかるプレッシャーがどんどん膨らむ様子を否応なく感じていました。

実はこの時点で僕はすでに一度休学しており、2016年に復学したタイミングだったのですが、大学で抱えている作業が一向に進められない状況になっていました。研究の傍ら、ゼミでの課題では学術論文を翻訳し、パワーポイントで発表を行わなければならなかったものの、これが全く形になりません。幾日幾晩パソコンに向かっても、どんなに集中しているつもりでも、目の前にはただ残骸のようなレジュメが映し出されるだけでした。全く作業に集中できなかったあのときの感覚は、頭の中の歯車が離れあった状態で空回りしているような感覚に近かったと思います。周囲の音や目に入るものにすぐ意識を持っていかれたりするんです。それに抗えなかったので研究室の灯りを全部消したりしましたが、読むべき文章を何時間も何時間も「目でひたすら撫でている」自分がいました。サボっていたわけでも、危機感がなかったわけでも、ディスレクシアだったわけでもありません。ただただ「できない」のです。 

結局、23度発表を延期してもらったにもかかわらず、全く形にすることができないまま、僕は復学からわずか二ヶ月で当年の卒業ができなくなりました。なぜ? なぜあれほどエネルギーを費やしたのに、何も形にならないのか? 自分が怠惰だったのだろうか? と考えつつ周囲の目を恐れていました。そうして発表が頓挫した日の朝、パニックに陥ってしまいました。混乱しながら学内のカウンセリング受け、結果心療内科に行くことになります。 

このとき「いくら自分が勉強が不得意だったにしても、これほどに悲惨なのはおかしい」という疑問と、深い自責の念が葛藤していました。この葛藤が「せめて専門家に診てもらって、自分の頭に何かしらの問題があるのか、それとも本当に怠惰なだけなのかを判断してもらおう。そうすれば少しは納得できるかもしれない」と考えるきっかけになりました。当時の僕の心境を知人に説明したこともありますが、理解してくれる人は多くありませんでした。

  

——ADHDと診断される前後の心境はいかがでしたか?

心療内科に行く理由は精神的に病んでしまっていたこともありましたが、先ほどの通り「頭のネジがおかしいのか?」と聞こうというのは予め決めていました。

初診の日、少し支離滅裂になりながらもどうにか頭の中身を吐き出した僕を迎え受けたのは、「宮城さんには一種の発達障害が見られるようです。成人型のADHDと考えられますね」という医師の診断でした。そう言われた瞬間「自分は少なくとも努力はしていたんだ……」という気持ちが頭に浮かび上がってきました。ほっとしたというより、ぼーっと机上の置き時計を見ながら感情が湧き上がるのを待っているような感覚でした。とはいえ、現実がすぐに僕の目の前に立ちはだかり、そのようなゆったりとした感覚を持てたのは診断当日だけでした。というのも、やるべきことが減ったり消えたりしたわけではないという事実にすぐ気がついたからです。診断前は「焦り」や「期待を裏切ることの自責」に翻弄されていたのですが、診断後はそれらが「何もできない無価値な自分への絶望」と「定型発達者に対する羨望」へと姿を変え、僕を悩ませるようになります。

 

——診断結果はまず誰に打ち明けましたか? またそのときの相手の反応はどのようなものでしたか?

病院からの帰り道、まず母親にLINEで結果を連絡しました。心療内科に行くことは朝伝えていたので「成人型ADHDだってよ」と一言送信しました。帰ってきた言葉は「じゃあ母さんもADHDだわ。そういう人、教員にゴロゴロいるけど」の一言。正直に書くと「自分の味方じゃないんだ」と思いました。その後、大学の同期やその他の友人に話したことがありますが、受け止めてくれる人はいませんでした。「自分ADHDって診断されたんだ」と言うと、ほぼ全員の口から清々しいまでに同じ言葉返ってきました。

「そんなの誰だってあるよ」

「医者は病名をつけるのが仕事だからね」

「え、それ誤診だよ」

「今までやってこれてるじゃん」

これらの言葉が僕にとってどれだけ残酷なものだったか、どう表現したらいいのかさえ分かりません。僕の中ではすべての発言が「お前がダメなんだろ? 言い訳すんなよ」へと変換されていたのです。

これらが経験則になって、誰にも話さないことで身を守るようになりました。ADHDを打ち明けると、返ってくる言葉によって更に追い詰められるからです。これ以上ダメージなんて耐えられるわけなかったのです。その結果、人と自ら会わなくなり、ほぼ全ての知人と最大限距離をおくようになりました。現在までに極少数の人たちにADHDであることを伝えましたが、その相手は想像力があり、理解者になってくれると確信した人だけです。

 

——周囲の言葉は宮城さんを勇気づけるためのものだったとも捉えられますが、今でも同じような気持ちを抱きますか? 

当時は周囲の言葉に敵意を抱いていましたが、今振り返るとマイナスな感情から発せられた言葉は、実際はなかったと思います。ただ不思議なくらいにほぼ全員が同じ言葉をかけてきたので、それが重なっていくうちに、諦めと守りの気持ちになっていきました。相談すればするほど、心がすさんでいったので。

今同じ言葉をかけられたとしたら、当時のトラウマみたいなものがあるので、怒りというよりは心の中で「ビクッ」としてしまいますね。あとは「想像できないんだな」と感じます。これは批判的な気持ちではなく、ADHDでも他の障がいの捉え方でも、または接客であっても「想像力」が重要だと思ってます。個々人の想像力は、あらゆる人生経験に裏打ちされたものなので、その経験量や多彩さがものをいいますよね。一方で「やってもできない」って感覚は定型発達でもADHDでも多分ほぼ同じなんですよ。となると僕の感覚を伝えるのは、そりゃあ難しいよね、と感じる自分もいます。

でも「みんなそうだから」と言われてしまうと、たとえその言葉に心配や叱咤激励の気持ちが含まれていたとしても、愛の鞭を急所に立て続けに打たれるような感覚になるんです。

 

——逆に宮城さんがADHDの診断を打ち明けられたらどんな言葉をかけますか?

僕自身、悩みに悩んで鬱にまでなっていたときに欲しかった言葉はほぼひとつ、「大変だったね」でした。これが驚くくらい誰も言ってくれないんです。この一言だけで、受け止めてくれたと感じられます。想像することはできないけど、感覚はわからないけれど、大変な苦悩を抱えていることは受け止めてくれているんだ、って。過去の自分が目の前にいたら、多分これしか言わないんじゃないかなあ。あとはたくさん聞き役になります。

ADHDの診断後、自分を知る人がいないところに行ってみようと一人旅にでたことがありました。そして旅先で出会った人たちに、なぜ一人旅をしているのかという話を何回かしたところ、聞いてくれた全員が、次のような言葉をかけてくれたんです。 

「おお、大変だったねえ」

「(大学を)3年いってるだけでも通ってる方だって(笑)」

「ちゃんと考えられるひとなら君の旅をみて『何かあったんだろうなー』って分かってると思うよ」

「逃げる、っていう行動をとれて正解だと思う。」

「あとは東京に引っ越すだけだな(笑)」

すべてがぼくにとっては救いの言葉でした。僕の話を、そのまま受け止めて誰も否定しなかったんです。加えて、それぞれが実は抱えている辛い経験や実情を、僕に話してくれたんです。それを聞いて、誰もが何かを抱えて生きているということを実感しました。たぶんお会いした人たちは、自らの人生を基に「想像」してくれたんだと思います。事情は違えど、同じように苦しんだ経験があるから。

この旅で得た経験と時間が、沖縄に帰ってからの心の支えになりました。もちろん苦悩は続くのですが、少しずつ、少しずつ、次へ進む力になりました。感謝してもしきれません。

 

——現在はソーシャルメディアのプロフィールにもADHDであることを記載されていますが、それには何かきっかけがあったんですか? 

主なきっかけは僕の精神状態の回復です。それと同時に、僕のような状況の人が偶然にもアカウントを見て、楽になれるかもしれないという気持ちもありました。

その一方で、残念ながら周囲の理解が得られたわけではありませんでした。確かに診断直後に比べると、今の僕には支えてくれる仲間やお客さん、環境があります。そのおかげで精神的にダメージを食らっても少しは耐えられるようになったと思います。しかし今でもADHDであることを面と向かって誰かに告げるのは正直怖いです。知り合いであるほど怖いです。

こう書いてみるとやはり、「コーヒー界のニューロダイバーシティ」で登場するストーリーと違い、正直僕は周囲の理解は得られていません。と言うよりも、その事実を伝えていません。先日、親戚に会話の流れでADHDであることを話してみましたが、前述の大多数の反応と同じでした。久しぶりにボディーブローを受けたような鈍痛を味わいました。そんな状況であったからこそ、「コーヒー界のニューロダイバーシティ」の内容は衝撃だったのです。

 

——宮城さんご自身は定型発達者と比較したときにどんなことが得意・苦手だと感じますか?

個人的にADHDは「車のハンドル・ブレーキ・アクセルがぶっ壊れた」状態と捉えています。「過集中・注意散漫・周囲の刺激に持っていかれやすい」ということですね。

文章を読んでいると、読むべき行に目を向けたいのに他の行の文字や文章に目が引かれて全く読めなくなることがあって、そんなときは読むことを諦めます。何か行動をしている最中でも、急にそれを放り投げて他のことをしてしまいがちです。逆に集中しすぎると他のことができなくなります。今の職場で一番多いのが冷蔵庫の引き戸の閉め忘れで、これが悲しいほど頻発します。ミルクを取り出して、ミルクの扱いに集中しすぎて冷蔵庫のことが頭から消え去ってしまうんです。開く扉なら立体的だからまだ気がつけるかもしれませんし、勝手に閉まってくれる可能性もありますが、引き戸はどうにも……。ここ最近オーナーの指導の下、焙煎にも取り組んでいるんですが、毎度何回も何回もガスや電気コードを閉めて抜いたか確認してます。

得意なことは……あるのかな……。過集中の状態にあるときに品種の勉強とか座学系をやったりするとストレスフリーですね。でも逆に気が散ってしまうときは何かを考え出したり、情報を整理したりといったことがまったくできなくなります。全然できなくなります。ちなみになんですが、この文章(編注:本インタビューはメール上で行われました)を書いてる今すごく集中できてます。実は今の勢いで打たないと期日までの返信が危うそうで……。

 

——コーヒーを含むホスピタリティ業界の仕事はADHD当事者に合っている、という意見が「コーヒー界のニューロダイバーシティ」内に出てきますが、宮城さんはこの考えに賛同しますか?

本当に素晴らしい捉え方だと思いますし、事実であると確信しています(もちろん周囲の人間環境次第ではありますが)。

僕はホスピタリティの仕事が大好きです。なぜかと言うと、「僕の人生全てを活かせる仕事」だからです。お客さんって、本当にいろんな人がいますよね。と言うか全人類がお客さんになり得るとさえ考えられますよね。つまりは、僕自身がこれまで経験した全てのコトが、ホスピタリティの材料となる可能性を秘めているということなんです! 

お客さんがお店で読んでいる小説の著者が、自分が読んでいる本と同じだったこともありますし、お母さんに連れられてやってきた子どもが手に持つおもちゃの恐竜が、僕が子供の頃好きだった恐竜と同じで、その名前はブラキオサウルスだとすぐにわかったこともあります。母親が毎朝聞いていたNHKのハングル講座の内容をなんとなく覚えていて、韓国からきたファミリーの写真を撮る際に韓国語で「はい、チーズ!」と言えた、なんてこともありました。お店で勉強している受験生を熱く応援することだってできます。これは全部実際にあったことです。

人生のどんなに浅いことも深いことも、その全てがお客さんを理解するきっかけになりえる。これが、ホスピタリティ業界で働く人の多様さ、ひいては業界の懐の深さに繋がるんだと思います。どんな人のどんな人生だって、その人とお客さんが輝くきっかけにできる。だからこそ僕はコーヒーという世界が自分を受け入れてくれていると感じられるのだと思います。

履歴書にしたら僕ボロッボロなんですよ。大学中退ですし、会社を辞めたりリストラされたり(笑)。でもその全てが僕なりのホスピタリティに結びついているんです。たとえADHDだとしても、過集中のときはいつもよりラテアートが綺麗にできる気がしますし、周囲の刺激に過敏なときはフロアのお客さんの挙動に迅速に反応できます。もちろん冷蔵庫閉め忘れることはありますけど……。

 

——定型発達者はADHDやその他の神経発達症を持つ人たちに対してどのように接すればいいと思いますか?

僕はADHDのような認識しにくい遺伝的差異については、当事者以外からの理解はほぼ得られないものだと思ってしまっています。定型発達目線からは、そんなのは甘えか誤診であるだろうと思うことがほとんどでしょう。もちろん「Neuro(神経)のDiversity(多様性)」という考え方を持ってほしいという気持ちはありますが、それが叶わずとも、せめて「みんな一緒である」という固定観念からは脱してほしいです。みんな違うんです。その理由は個性だったり環境だったり、または遺伝的だったり様々でしょうが、とにかく僕らは「みんな一緒だから」という考えを突きつけられると辛いのです。 

もし知人や友人が「自分、ADHDなんだよね」と打ち明けてきたら、嘘でもいいから受け止める言葉を選んでほしいです。あなたにとっての「普通」が物事の判断基準の中心にあるように、僕のような人たちが経験してきたこと、抱いた感情もまた今の僕らを形成する大事なピースなのです。「そんなことないよ」という、当事者の体験を矮小化するような言葉だけは、絶対に避けてほしいです。